『僕が音楽を聴かなくなった理由(ワケ)』

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って書くとちょっと嘘ですね、ちょくちょく聴いてますミナヅキです。

ちょくちょく聴いているとはいえど、以前に比べたら大幅に音楽を聴いている時間は短くなりました。職場の近くに転居をして通勤時間が短くなった事や、自宅での時間の使い方が変わったことなど、思い当たる要因はいくつかありますが、どれもちょっと根拠としては弱い部分があります。

では、根本的にどう変わったのか、という部分を個人的な感覚で追ってみたいと思います。

結論から。

ある程度思い当たる事といえば「年齢相応に音楽を聴いてきて、各種感情やシチュエーションに対して一通り当てはまる音楽が決まってしまった」という感じです。

たとえば夕日を見た時に口ずさみたくなる音楽、青い空を見上げたときにふっと思い出されるメロディ、優しい気持ちで誰かを想うときに出てくるフレーズ。

そういったものがおおよそ20代後半から30代くらいまでの間に一通り決まってしまって、そのポストに新しくはまる音楽を探す必要がなくなったからなのかなと感じています。

そしてそういった楽曲というものは多感な時期、思春期や20代前半の頃に聴いていた音楽でおおよそ固定される…という話題も記憶するところです。

カナダにおける思春期の音楽選好と性格の関連の研究では、重い楽曲を好む人は自尊感情が低く、家族内での不安が強く、他者から拒絶されていると感じる傾向があり、軽い楽曲を好む人は相応しい行動を取ることに囚われ、自立と依存のバランスを取ることに困難を感じていた。エクレクティックを好む人の方が思春期を上手に乗り越えることができ、気分やその時の必要に応じて柔軟に音楽を利用していた。
音楽選好の心理学 – Wikipedia

あ、この記事面白いですね。ある程度感覚的に言われている事ではありますが、私達の年代ですと、初期の浜崎あゆみやBUMP OF CHICKENあたりは思春期の自尊感情に訴えかけるような重めの内容の曲が多く、やはり支持を多く集めていたように思いますし、何より私もその類型に漏れず共感を持って聴いていました。

ふとしたときにくちずさみたくなる音楽が、すべての感情のピースとぱっちり当てはまったときに、もう新しい音楽に対する欲求というものが弱くなったように感じました。

気に行った曲をローテーションするような聴き方になったといいますか、気に行った曲だけを集めたプレイリストだけでも1日聴いてられることは当然というくらいになったとでもいいますか。

そのプレイリストである程度の音楽的な欲求は満たされてしまうようになるのがおおよそ30代前後だったりするのかなぁという感覚を得ています。

 

聴き方がかわった。

なにかいつもと違う音楽を聴きたいときはスマートフォンでインターネットラジオのジャンル専門チャンネルを聴くようになりました。

プロなのかアマチュアなのか同人屋なのかすらわからない、知らないトラックメイカーの知らない楽曲をタイトルすら気にせず、そのときだけの体験として聴き流すようになりました。これがまた余計なベクトルといいますかフィルターもないまま視聴に臨むことになるので、自分の好みにぴったりくる音が聴こえたときにはとても気持ちの良い体験となったりします。

Melodic Progressive Radio
The melodic side of progressive house, packed with driving rhythms and forward thinking sounds.

Melodic Progressive channel  

DIFMというサイトのメロディックプログレッシブハウスのチャンネルです。毎日聴いていると割と同じプログラムで流れているように聴こえるので聞き覚えがある曲を耳にしたりします。

割とShingo Nakamuraのトラックもヘビーユースされているようで耳にする事が多いです。すごいですよね。国内アーティスト/トラックメイカーが海外で認められているのを実際に耳にする事が出来るというのは。

Shingo Nakamura
] Web / Twitter / Facebook 1986年生まれ。茨城県出身。叙情的なピアノメロディに幻想的なシンセプログラミングを調和させる、繊細なサウンドスケープを特長とするミュージック・デザイナー。現在は日本のOtographic Music、ロシアのSilk Music、イギリスのEnhanced...

Shingo Nakamura | Otographic Music

Amazonでも流通あるんですね。個人的にはHakodateとか好きです。あのエレピを抑えたようなシンセプラックの質感とかとても香り高いです。

日本語詞が重くなった。

これはおそらくDTM経験の最中から自覚としてどこかにあって、インストの上に日本語の歌詞が乗るとその途端にストーリーや情景の描写が一瞬で済んでしまうんですよね。

この「言葉が持つ直接的な表現力」が耳からインストの音を遠ざけているような感覚を覚えてしまいました。あと製作する側としてはとても便利なんですよね、歌詞って。描きたいシーンを言葉で説明してしまえばセンスはどうであれ物語が発生しますから。

自分が日本人なので理解しやすい日本語の歌詞が最もその影響を強くもつわけで、日本語詞の曲を聴くたびに「これインストで聴いてみたいよなぁ」という感想をしばしば持つようになりました。ボーカルのコントラストの聴いたメロディの裏でちょっとずつ動いているであろうフィルターワークなどにもっと集中を向けたいなという、ある意味ではDTMをやっていた経験からの傲慢さとも言えるのかしれませんが。

一度自分で製作をしてみるとそれ以降ではどんな楽曲も素直に聴くだけという聴き方は難しくなるのだろうなと感じます。これは音楽に限った話ではなくどんな分野の職業であっても内情を知っているとつい気になる部分があれこれ出てくる、という事と同じでしょう。

しかし、製作している途中でボーカロイドなんかで「らー」という言葉だけでメロディを歌わせた仮データだけでもインストの上に乗っかるとそれはそれで楽しかったりするんですよね。

結局のところ。

思春期の頃にあった「何か心が動くたびに音楽を拠り所にする」というようなライフスタイルから、何かのタイミングで脱却してしまったのかもしれません。

音楽を聴くという行為は日本に置いてはとても当たり前で普通で身近な文化として、疎まれることもなく、義務教育や教養の一環としても存在しています。それらを考えると音楽を好む性質になりやすい文化圏なのかもしれません。

音楽には幼少の頃から触れる機会があり、今やどこの家庭にもテレビは普及していていつもなにかしらの音楽が耳に入ってくる環境にあります。音楽を聴くということに対して無意識のうちに音楽に触れているような文化だといえます。

思春期の多感な時期、まだ自由になるものが少ない年齢の中で数少ない自由になるもの、それが少年少女にとっての音楽というものなのかもしれません。

そんな年齢から、様々な経験や物事を知り、体験し、音楽に対するスタンスや好みがかわっていくのはむしろ自然な事なのかもしれませんし、「自分が音楽を聴かなくなった」という事実にどこかで悲観的なとらえ方をしていた自分にもこうして気付くことも出てくるかもしれません。

いいんじゃないですか。いいと思いますよ、それ。

「No Music,No Life.」

それも人生ならその逆も人生です。聴かなくなったといっても昔と比較してという話ですし、今の日本では耳栓でもしなければ何かしらの音楽やリズムは聞こえてきます。私のようなフロアミュージック愛好者は4拍子のキックドラムの音が聴こえただけで「おっ」と振りむいたりしますし、洋服屋さんの店内BGMのシンセプラックの音についつい立ち止まってしまったりします。

音楽は強制されて聴くものでもないですし、そういう意識がどこかにあって聴いているのであれば、一度音楽から遠ざかってみるのも一つではないでしょうか。

たまには静かなところで、自分の鼻歌を楽しんでみましょう。

そのときあなたが選んだ歌は、どんな歌ですか。

29歳の頃に2年間ずっとヘビーローテーションし続けたアルバムでした。